2018年02月21日

歴史探偵さかもとさん【小針遺跡がこんなところにぃいい!!!】



歴史探偵さかもとさん【小針遺跡を眺める】
歴史探偵さかもとぢゃぁ!
愛知県岡崎市小針町からは、
おびただしい数の住居跡が発見されたんぢゃぞ
ちょうど、矢作川に添った、碧海台地のはしっこぢゃから、
昔からひとびとが
住みやすかったんぢゃのう
下にある、「学区の移り変わり」が、
非常にわかりやすく説明されておるぞ

1)大むかしのくらし
 一万年前の氷河時代が終わった後を,沖積世と呼んでいます。その頃の矢作川は,現在のように一本の川でなく,いくすじかに分かれて流れ,土や砂を押し流し,積み重ねながら,矢作川の両側の低い平野を形づくってきました。そして,この低地を見おろす小針,橋目,北野の台地は,野草や木の茂った森林であったと思われます。
 この台地に,大むかしの人々が使った生活の道具が数多く発見されています。つぎの評のように今から約五千年前に使った石器では,石やじり(矢の先につけ,けものをとるもの),石おの(木を切るもの),石ぼう(ものをくだくもの),などが出土しています。これらの石器の発見から,当時の人々は,弓矢を使ってシカやイノシシなどのえものの狩りや,矢作川での漁,木の実(ドングリ,シイなど)の採集でくらしをたてていたことが分かります。そして,えものを求めて,時おり碧海台地矢作川岸ぞいに,住まいを移動しながら生活していました。
 大陸から日本に稲作の技術が伝わると,しだいに米作りの農業がはじまりました。狩りや漁の生活から,一か所に住む場所を決めて安定した生活ができるようになりました。北野や橋目・小針に連なる碧海台地と沖積平野の境めに住居をもち,小さな「ムラ」を作って、集団で低地での米作りを始めました。このため,わたしたちの学区では,弥生時代の遺物が数多く発見されています。
 小針町からも,たくさんの土器のかけらが出ました。弥生時代後期のものです。これらの土器のほとんどは,台地の端と低地に集まっています。このことは,狩りや漁,木の実、草の実にたよっていた生活から,米作りを中心にした生活にかわり,それにともなって人口もふえ,「ムラ」も多くなったことを示しています。
(2)小針遺跡
平成5年から6年にかけて小針町での遺跡の調査が行われ,たくさんの住居跡が見つかりました。これは,古墳時代後期(6~7世紀)から奈良時代(8世紀)にかけてあった竪穴式住居の跡です。住居跡は,百軒以上見つかりました。建て替えなどを考えると,実際は2、30けんの集落であったと思われます。
 この時代の竪穴式住居は,すみが丸くなった正方形の形に地面を掘り,その中に柱を四本立てて,屋根をかけたものです。また,部屋のかべのそばには,かまどが作られていました。じゅんきょの中からは,須恵器(高温で焼かれた土器)の破片が出土しています。
 矢作川ぞいには大規模な集落がたくさんありました。その中でも,この小針遺跡は古墳時代のものにしては一番大きなものになります。調査はまだ続き,徐々にこの時代の人々のくらしや社会の構造がはっきりしていくでしょう。(「学区の移り変わり」より抜粋)


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Posted by 三田村ちはる at 10:36Comments(0)古代