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2018年03月13日

【若宮八幡宮】岡崎市朝日町 歴史探偵さかもとさん



【若宮八幡宮】岡崎市朝日町 歴史探偵さかもとさん
歴史探偵さかもとぢゃぁ!
こちらの神社には、徳川家康と正妻の築山御前の間に出来た長男、
信康の首塚があるぞ
家康も信康も、たいそう無念だったことじゃろうなぁ〜
築山御前の首だけでは、治まりきらなかったんじゃろう
たまには、ゆっくり参りにきてくれよ
ぢゃぁのん!!

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天正7年(1579年)9月15日、岡崎城主であった松平信康は、織田信長より武田勝頼内通の疑いをかけられ二俣城で自刃させられる(母親の築山殿は8月29日、野中重政らによって殺害された)。首は信長の実検後に岡崎に返され、清水万五郎が徳川家康の命で、投村根石原(現在の朝日町)に埋め、印の松を植えたという。
その後岡崎城代となった石川数正が天正8年(1580年)5月、信康を若宮八幡宮として、母の築山御前を神明宮として祀ったという。
明治維新後に観音堂が分離し投町に移る。本殿横に信康の首塚がある。1945年(昭和20年)7月20日の岡崎空襲により、土蔵を残して全焼。社殿は再建されたが旧観はない。(Wikipediaより抜粋)
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Posted by ちはる at 12:50Comments(0)徳川家康

2018年02月21日

歴史探偵さかもとさん【小針遺跡がこんなところにぃいい!!!】



歴史探偵さかもとさん【小針遺跡を眺める】
歴史探偵さかもとぢゃぁ!
愛知県岡崎市小針町からは、
おびただしい数の住居跡が発見されたんぢゃぞ
ちょうど、矢作川に添った、碧海台地のはしっこぢゃから、
昔からひとびとが
住みやすかったんぢゃのう
下にある、「学区の移り変わり」が、
非常にわかりやすく説明されておるぞ

1)大むかしのくらし
 一万年前の氷河時代が終わった後を,沖積世と呼んでいます。その頃の矢作川は,現在のように一本の川でなく,いくすじかに分かれて流れ,土や砂を押し流し,積み重ねながら,矢作川の両側の低い平野を形づくってきました。そして,この低地を見おろす小針,橋目,北野の台地は,野草や木の茂った森林であったと思われます。
 この台地に,大むかしの人々が使った生活の道具が数多く発見されています。つぎの評のように今から約五千年前に使った石器では,石やじり(矢の先につけ,けものをとるもの),石おの(木を切るもの),石ぼう(ものをくだくもの),などが出土しています。これらの石器の発見から,当時の人々は,弓矢を使ってシカやイノシシなどのえものの狩りや,矢作川での漁,木の実(ドングリ,シイなど)の採集でくらしをたてていたことが分かります。そして,えものを求めて,時おり碧海台地矢作川岸ぞいに,住まいを移動しながら生活していました。
 大陸から日本に稲作の技術が伝わると,しだいに米作りの農業がはじまりました。狩りや漁の生活から,一か所に住む場所を決めて安定した生活ができるようになりました。北野や橋目・小針に連なる碧海台地と沖積平野の境めに住居をもち,小さな「ムラ」を作って、集団で低地での米作りを始めました。このため,わたしたちの学区では,弥生時代の遺物が数多く発見されています。
 小針町からも,たくさんの土器のかけらが出ました。弥生時代後期のものです。これらの土器のほとんどは,台地の端と低地に集まっています。このことは,狩りや漁,木の実、草の実にたよっていた生活から,米作りを中心にした生活にかわり,それにともなって人口もふえ,「ムラ」も多くなったことを示しています。
(2)小針遺跡
平成5年から6年にかけて小針町での遺跡の調査が行われ,たくさんの住居跡が見つかりました。これは,古墳時代後期(6~7世紀)から奈良時代(8世紀)にかけてあった竪穴式住居の跡です。住居跡は,百軒以上見つかりました。建て替えなどを考えると,実際は2、30けんの集落であったと思われます。
 この時代の竪穴式住居は,すみが丸くなった正方形の形に地面を掘り,その中に柱を四本立てて,屋根をかけたものです。また,部屋のかべのそばには,かまどが作られていました。じゅんきょの中からは,須恵器(高温で焼かれた土器)の破片が出土しています。
 矢作川ぞいには大規模な集落がたくさんありました。その中でも,この小針遺跡は古墳時代のものにしては一番大きなものになります。調査はまだ続き,徐々にこの時代の人々のくらしや社会の構造がはっきりしていくでしょう。(「学区の移り変わり」より抜粋)


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Posted by ちはる at 10:36Comments(0)古代

2018年01月31日

家康公の伝説が残る「御所清水」はここじゃ!



【御所清水の伝説・家康編】岡崎市北野町 歴史探偵さかもとさん

北野町にある、北野小学校の西側には、「御所清水」と呼ばれる湧き水があるんじゃ。
「御所清水」の伝説には、家康公にまつわる話と、持統天皇にまつわる話があるのじゃが、
今回紹介する場所は、家康公にまつわる「御所清水」じゃ

1558年2月豊田市の寺部城(現在の豊田市寺部町)を攻めた徳川家康(この頃は
松平元康)が、戦いの帰り道にここへ立ち寄り、のどの渇きをいやしたのだとか。
岡崎の兵と、寺部上場種寺部重辰との、激しい戦いだったそうじゃぞ!

そしてもうひとつ家康公にまつわる話があるぞ。
1560年5月、桶狭間の戦いで今川義元が織田信長に打たれると、家康公(元康)も
大高(現在の名古屋市緑区西南部)から命からがら、逃げ帰ってきたそうなんじゃ。
そのときにも、ここでのどの渇きをいやしたそうなんじゃ。

2年前の寺部城の戦いの後に、北野町の御所清水に寄った事を、
家康公は覚えておったのかもしれんのぅ
当時ほどではないが、いまも湧き水は湧いておるぞ!!


そして、「鹿が松の伝説」へと繋がってゆくんじゃ。


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Posted by ちはる at 11:51Comments(0)徳川家康

2018年01月29日

古墳を見に行こう♡古墳シリーズ【外山第3号墳】歴史探偵さかもとさん


古墳シリーズ【外山第3号墳】歴史探偵さかもとさん
岡崎のイオンの中に、古墳があるのを知っとるかな??
愛知県岡崎市戸崎町のイオン岡崎ショッピングセンター敷地内にある「イオン藤さき古墳広場」 
西の角のほうにある、藤棚が目印じゃぞ。
「外山古墳群(とやまこふんぐん)」として保存公開されているんじゃ。

1号墳は円墳で現状保存。5世紀後半。こんもりとした丸い形の墳丘。上に昇れるように、階段が設置されておるぞ。こちらでは、埴輪や須恵器などが発見されたんじゃ。

3号墳は横穴式石室のみ移築保存。(5世紀末から6世紀初め)。墳丘の外側には、墳丘を守るため石が葺かれており、その回りには、鳥や馬などの形をした形象埴輪や、円筒埴輪が立ててならべられていたんじゃ。墳丘中央の石室の中からは、葬られた人に供えられた馬具や鉄族(てつぞく)などが見つかっておるぞ。

こんなに小さな古墳からも、様々な形の埴輪や鉄鏃などが見つかっている事は驚きじゃなぁ〜♡♡

※ 鉄鏃(てつぞく)とは石鏃に代わって用いられるようになった鉄製の鏃(やじり)
※ 石鏃(せきぞく)は、石を材料として作られた鏃(やじり。矢尻とも、また矢先や矢の根とも )


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Posted by ちはる at 10:28Comments(0)古墳シリーズ

2018年01月28日

古墳を見に行こう♡古墳シリーズ【外山第1号墳】歴史探偵さかもとさん



イオンの敷地内に、古墳があるのを知っておるかな??

愛知県岡崎市戸崎町のイオン岡崎ショッピングセンター敷地内にある
「イオン藤さき古墳広場」じゃ 敷地内の西方角地にあるんじゃ


「外山古墳群(とやまこふんぐん)」として保存公開されているぞ

1号墳は円墳で現状保存。5世紀後半。こんもりとした丸い形の墳丘。上に昇れるように、階段が設置されている。こちらでは、埴輪や須恵器などが発見されたんじゃ。

3号墳は横穴式石室のみ移築保存。(5世紀末から6世紀初め)。墳丘の外側には、墳丘を守るため石が葺かれており、その回りには鳥や馬などの形をした形象埴輪や円筒埴輪が立ててならべられていた。墳丘中央の石室の中からは、葬られた人に供えられた馬具や鉄族(てつぞく)などが見つかっておるぞ。

こんなに小さな古墳からも、様々な形の埴輪や鉄鏃などが見つかっている事は驚きである。

※参考 鉄鏃(てつぞく)とは石鏃に代わって用いられるようになった鉄製の鏃(やじり)のことじゃ
※参考 石鏃(せきぞく)は、石を材料として作られた鏃(やじり。矢尻とも、また矢先や矢の根とも )のことじゃ


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Posted by ちはる at 23:25Comments(0)古墳シリーズ

2018年01月19日

古墳を見に行こう♪ 古墳シリーズ【西本郷6号墳】歴史探偵さかもとさん



古墳シリーズ【西本郷6号墳】歴史探偵さかもとさん
岡崎市西本郷町にある和志取神社では、2基の古墳を見ることが出来ます。
西本郷町6号墳と7号墳です。6号墳はお稲荷さんのお社の後ろです
古墳の周囲から発見された土器が7世紀頃と
推定されたため、古墳そのものも、同じ頃かと推察されています

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Posted by ちはる at 23:44Comments(0)古墳シリーズ

2018年01月16日

古墳シリーズ【西本郷7号墳】歴史探偵さかもとさん


古墳シリーズ【西本郷7号墳】歴史探偵さかもとさん
岡崎市西本郷町にある和志取神社では、2基の古墳を見ることが出来ます。
西本郷町6号墳と7号墳です。古墳の周囲から発見された土器が7世紀頃と
推定されたため、古墳そのものも、同じ頃かと推察されています

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Posted by ちはる at 22:35Comments(0)古墳シリーズ

2018年01月11日

岡崎のシテンニョーシカちゃんじゃっ♡

正確には【イエヤスコウとシテンニョーシカ】




みンなの幸せを願うたましイ♡

だそうじゃ✨

 それに、グッズもかわいいんじゃぁあ〜!!

お求めは、
岡崎公園みやげ店、
道の駅藤川宿、
岡崎市役所内観光協会

『岡崎』のアクセントは『ミソソソ♪』でしかラ♡



そう!そうなんじゃぁあ!!





このアクセント、ほんと、岡崎市民には大事!!



一発で、地元かそうでないか、
わかるんじゃぞ!!
  


Posted by ちはる at 15:04Comments(0)岡崎のお土産

2018年01月10日

古墳シリーズ【和志山古墳(五十狭城入彦皇子の墓)】歴史探偵さかもとさん



古墳シリーズ【和志山古墳(五十狭城入彦皇子の墓)】歴史探偵さかもとさん
愛知県岡崎市西本郷町にある、和志山古墳です。
このお墓は墳丘長58mの前方後円墳で、五十狭城入彦皇子(いさきいりひこのみこ)の墓といわれています。
五十狭城入彦皇子は第12代景行天皇の息子で、日本武尊(やまとたける)とは腹違いの兄弟です。
そんな皇族のお墓が、こんなところにあるだなんて、驚きですね。
宮内庁管轄のため、中には入れないようになっています。

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▶︎参考

五十狭城入彦皇子(いさきいりひこのみこ、生没年不詳)は、『日本書紀』等に伝わる古代日本の皇族。
『日本書紀』では「五十狭城入彦皇子」、他文献では「五十狭城入彦命」とも表記される。『古事記』に記載はなく、『日本書紀』でも事績に関する記載はない。
第12代景行天皇の皇子である。

『日本書紀』によれば、第12代景行天皇と、後皇后の八坂入媛命との間に生まれた7男6女のうち、10番目に生まれた皇子である。
『先代旧事本紀』「天皇本紀」においても景行天皇皇子として五十狭城入彦の名が見え、さらに同書では五十狭城入彦が三河長谷部直の祖であるとする[1]。
また『新撰姓氏録』左京皇別 御使朝臣条・右京皇別 御立史条では、景行天皇皇子の気入彦命(けいりひこのみこと)が応神天皇の命により、逃亡した宮室の雑使らを三河国で捕えたと見える。この「気入彦命」の記載は『日本書紀』『古事記』には無いため、五十狭城入彦と同一視する説がある[1][注 1]。
五十狭城入彦皇子の墓は、宮内庁により愛知県岡崎市西本郷町和志山にある五十狭城入彦皇子墓(位置)に治定されている[2]。考古学名は「和志山古墳(わしやまこふん)」[3]。
この古墳は墳丘長58メートル(推定復元60-80メートル)の前方後円墳で[4]、4世紀末から5世紀初頭頃の築造と推定される[5]。明治28年(1895年)に宮内省(現・宮内庁)により陵墓伝説地(被葬候補者:気入彦命)に指定されたのち、明治29年(1896年)には墳丘上にあった薬師堂・石塔が撤去され、大正15年(1926年)頃に「矢作陵墓参考地」に名称変更、昭和16年(1941年)に五十狭城入彦皇子墓に治定されている[4]。
また同古墳の南東の方向には、式内社論社の和志取神社(岡崎市西本郷町御立)が鎮座する。五十狭城入彦を祭神に祀るとともに、五十狭城入彦が逆臣の大王主(大任主)を当地で討ったとする由緒を伝えている[1][6]。西本郷の地は、東本郷と併せて『和名抄』に見える三河国碧海郡谷部郷(はせべごう)に比定されることから、五十狭城入彦後裔の長谷部氏が同地に来住したとする説もある[3]。

Wikipediaより抜粋

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Posted by ちはる at 22:07Comments(0)古墳シリーズ

2018年01月09日

古墳シリーズ【宇頭2号北裏古墳】歴史探偵さかもとさん



古墳シリーズ【宇頭2号北裏古墳】歴史探偵さかもとさん

岡崎市宇頭町の宇頭古墳群は、北部古墳群3基と、南部古墳群8基、和志山古墳群5基からなる古墳群。
2号北裏古墳は、大塚古墳(薬王寺)の北西に位置し、現在は大塚公園となっている。円墳で、直径27m,高さ4m
小針町の大友皇子の墓と伝わる、小針一号古墳によく似た大きさと雰囲気です
それにしても、こんなところに古墳があるんですねぇ〜!?

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Posted by ちはる at 13:39Comments(0)古墳シリーズ